お客さんは日陰にあるベンチで休んでいる方と散歩の方で結構お年寄りの方が懐かしがって聞いてくれた。大正の歌と説明していると、「私は大正3年生まれの94歳だよ」と元気に反応してくださるおばあさんもいらっしゃった。90歳以上の後期高齢者の方にこんな駅から離れた多摩川近くの公園でお会いするとは驚きであった。
3人で数曲づづ交代で演奏した。「ほら、前にやったあの横浜の歌、やって!」とリクエストがあった。なんだろうと皆で考えたらやっと分かった。ぴーまんさんの「夜来香」であった。横浜、中華街、中国、夜来香という発想だったのだろうか。
そういえば、昭和のはじめに活躍した混血の美男・美女混血がいた。
混血の美女といわれたのが李香蘭(本当は日本人)なら混血の美男とは?
お父さんがスコットランド人、お母さんが美人の芸者で顔よし、声よしのイケメン歌手!
混血の美女といわれたのが李香蘭(本当は日本人)なら混血の美男とは?
お父さんがスコットランド人、お母さんが美人の芸者で顔よし、声よしのイケメン歌手!
それはテノール歌手の藤原義江、
というわけで、帝大生は蘇州夜曲、出船、七里ヶ浜哀歌、東京音頭、まっくろけ節などを歌った。
公開練習終了後、みんなで沖縄展(オキナワ/カワサキ)をみた。
沖縄というと戦争の写真や戦後の写真しかあまりみたことがなかったが、大正、昭和初期の庶民の生活の写真や、江戸時代の資料が展示されており、大変興味深かった。
沖縄というと戦争の写真や戦後の写真しかあまりみたことがなかったが、大正、昭和初期の庶民の生活の写真や、江戸時代の資料が展示されており、大変興味深かった。
神事や儀式で琉球風の着物を着ている写真もあったが、市場などの写真ではほとんどが本土と変わらない着物(長着)を着ていた。芭蕉布を織る女工さんも絣の着物を着ているように見えた。明治から大正時代にかけて少なくとも服装は日本化しているようである。
前後にバナバをぶら下げた天秤棒を担ぐバナナ売りのおじさんも着物姿でパナマ帽をかぶっていた。
前後にバナバをぶら下げた天秤棒を担ぐバナナ売りのおじさんも着物姿でパナマ帽をかぶっていた。
江戸時代に琉球から江戸まで来ていた使節団は1年がかりで江戸へきていたらしい。琉球から島津藩までは船で、そこにしばらく滞在してから島津藩と一緒に船で大阪へ渡り、東海道を江戸まできたそうである。琉球の使節団100名に薩摩藩も入れると総勢千名程度の大行列だったそうだ。
江戸時代の書物の中にある絵は中国風の衣装に身を包み、にぎやかにめずらしい楽器を演奏しながら異国情緒たっぷりに行列している(琉球人行列図錦絵)。
今の沖縄の衣装もかなり日本の着物と異なっているが、その意味が解説を見てよく分かった。
今の沖縄の衣装もかなり日本の着物と異なっているが、その意味が解説を見てよく分かった。
日本と違う衣装は島津藩や江戸徳川幕府の強い意向であったようである。いかに遠く中国の近くまで幕府の力が及んでいるか、琉球王国まで統治していることを庶民に知らす目的であったそうである。なるほど、江戸と同じ着物を着ている使節団なら遠くから呼ぶ必要もないわけだ。実際にはその当時からすでに日本の文化をたくさん取り入れていた可能性はある。昔の資料を見るときにはいろいろな角度から見る必要があるようだ。
川崎市民ミュージアム: http://www.kawasaki-museum.jp/
バイオリン演歌 書生節 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師 帝大生ゆめじ 昭和ロマンを楽しむ会 昭和歌謡
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